ホホホの森たんけん隊のノートブック

ホホホの森探検隊は盛岡城跡公園(岩手公園)を舞台にした遊びを極める活動です

ホホホの森たんけんフィナーレ(解答ブログ)

ホホホの森探検隊は新たにはてなブログをはじめました。

2022年度最後の開催となる3月18日、「ホホホの森たんけんフィナーレ」と題し、1年間親しんできた公園の隠れた魅力をあらためて掘り下げるとともに、新たなモリヴィア(盛岡+トリヴィア)を巡りました。その活動記録、というか答え合わせです。随時校正しておりますので次に見たときちょっと表現が変わっているかもしれませんがどうかご容赦を。

第3回目のホホホの森たんけんマップ

今回の「ホホホの森たんけん」は全部で20問あります。1問ずつ解説してまいります。

 

①おしろ全体が北からちょっと東寄りひがしよりに向いています。この意味は何?

岩手公園と愛宕山そして付け替えられる前の北上川(青の矢印)

上は1911年の国土地理院こくどちりいん地形図ちけいずです。
簡単に説明します。岩手公園の城郭じょうかく愛宕山あたごやまの方を向いています。上の地図を見てください。愛宕山総本山そうほんざん京都きょうと愛宕山みやこ北西ほくせいに位置していますが、盛岡では都の北東ほくとう位置いちしています。

愛宕山愛宕神社あたご因じんじゃ)は火伏の神ひぶせのかみであると同時に戦の神いくさのかみでもありました。これは愛宕信仰あたごしんこうと言い修験道しゅげんどうにも関係かんけいします。戦に備えて防御ぼうぎょ重視じゅうしした南部の殿さまは愛宕山あがたてまつったと想像そうぞうされます。

ちなみに、本州で盛岡より北にある愛宕山はわずか2箇所で、一つは八幡平市大更はちまんたいしおおぶけにある愛宕山、もうひとつは青森県むつ市脇野沢あおもりけんむつしわきのさわ愛宕山です。脇野沢の愛宕山は、日本海側を中心に全国を渡り歩いた北前船きたまえぶねがもたらしたものと想像されます。志波城しわじょうが盛岡にきずかれて以来いらい蝦夷えみしから大和やまとの国に去勢きょせいされて行く悲哀ひあい?が、ここでも見ることができます。

なお蝦夷えみしの国北海道には愛宕神社が3~4社ありますが、これは蝦夷たちの信仰しんこうでは決してなく、脇野沢と同様、北前船寄港地きこうち江差えさし上ノ国かみのくに)なのです

愛宕信仰 - Wikipedia

 

(ルビを付けるのがはてなブログではとても面倒なので、これからルビ無しで行きます。スミマセン)

 

⑪古い北上川はどこを流れていた?

上の地形図に北上川が流れていた時の痕跡を見ることができます。旧河道とその低地部分が、地下水位が高いのか水田になってます。現在の位置に付け替えられたのは江戸時代中期の延宝3年(1675年)、石垣普請の第3期にあたり、河道の付け替えに伴って失われた盛岡城西側の要害性を取り戻すために、西側に新たに石垣が構築されました。

しかし、河道付け替えから200年以上経っても地盤の低湿な状態は改善されなかったんですね。

盛岡城内曲輪(城郭内部分)と旧北上川河道  ~史跡盛岡城跡保存管理計画書より~

史跡盛岡城跡保存管理計画書 第2章‐1 史跡の概要


②サトウカエデに樹液を採ろうとした傷があるよ。どこ?

この傷(バッテン)は少なくとも2006年には付いてました。実際に行ってどこについているか確認しましょう!

バッテン ×

③ほとんど埋もれかけた樹名板を探せ

ユリノキの樹名板が埋もれる

ユリノキの樹名板、はじめて発見した2006年には既に半分以上埋もれていました。なおユリノキはとても成長の早い木で知られ、このユリノキは今から56年前の昭和42年に植栽されています。
葉っぱが半纏に似ることからハンテンボクとかドンボクとかw、初夏に咲く花がチューリップに似ることからチューリップツリーの別名がありますが、用材としては軟らかくて軽く強度がでないためほとんど価値がなく、伐採されても薪や炭ですら用いられることがありません。

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ユリノキの本数が人によって定まらないけど何本かじっさいに数えてみよう

37本あります。少なくとも2006年から変わっていません。

37本のユリノキ並木


⑤人知れず伐られてしまった樹々たち

樹木公園である岩手公園は盛岡市の石垣を強調する整備によって、どんどん樹種を減らしています。いわば節操のなかった樹木の植栽が、史跡盛岡城跡保存管理計画書 Ⅶ.整備・活用の方針  によって平成26年以降、どんどん整理されています。

2006年にまとめた48種類の樹々のうち、10種類が消滅しました。トサミズキは伐採されて
いませんでした。また本丸のカシワは皆伐されましたが二ノ丸にはまだ残ってます

史跡盛岡城跡保存管理計画書 Ⅶ.整備・活用の方針

樹木公園であった岩手公園が、石垣をかっこよく見せるためにどんどん余分な樹々が整理され、だんだん没個性化しているような気がします。観光客に被写体を与える石垣か地元民に安らぎを与える木陰か、の選択とも言えます。


アカバナマンサクを探せ

⑦1本だけ残ったマルバマンサクを探せ!

アカバナマンサクは黄色いマルバマンサクの花を赤く改良した品種で、東北では山に自然状態で咲いていることはありません。マルバマンサクは岩手に多いオオバマンサクの日本海側の変種とされています。
3月になると鶴ヶ池の上に咲き誇る黄色いマンサクの花がよくローカルテレビのニュースで取り上げられたましたが、ほとんど伐採されたためもうテレビで季節を知ることも叶わなくなりました。

アカバナマンサクとかつてのマルバマンサク
アカバナマンサクに間違ってつけられたマルバマンサクの樹名板)

⑧石垣由来の鉱物がたくさんある場所はどこ?(その鉱物は何?)

ここからの3問は全て烏帽子岩とその周辺に関わる問題です。階段で烏帽子岩近傍まで登ってみましょう。

GoogleMap3Dでの烏帽子岩 Bird's Eye View

階段を登りきるとそこの地面に何やら金色の鉱物が散らばっています。この写真を撮った時は折しも雨が降っており、地面をつたう雨水の中で余計キラキラ光っています。

金色に光る鉱物は花崗岩である烏帽子岩由来の黒雲母(風化して金色に光ってる)

ということで烏帽子岩周辺には黒雲母が沢山集まっています。石垣由来としたのは烏帽子岩を特定されたくなかったからですが、石垣の石は烏帽子岩近傍からも取られておりあながち噓ではありません。なお、賢治も採取した蛭石は、この黒雲母が変質したものです。(蛭石についてはまた今度詳しく)

 

⑨岩手公園でお城がつくられた時からある(と思われる)最も自然が残る場所はどこ?

烏帽子岩の脇のココです。都市公園で笹が生い茂っているところってまずないでしょう。

前は木立ちもあったのに伐採してしまった

セキレイ君の説明で大きな間違いがあるよ。それはどれですか?

2006年に盛岡樹跡公園ガイドマップが岩手公園開園100周年を記念して整備され、それとともに岩手公園の愛称が盛岡城跡公園となりました。正式名称より愛称の方が長いという不思議な命名でしたが、盛岡を訪れる観光客には盛岡城跡公園という重箱読みが分かりやすいでしょう。ただ盛岡で生まれ育ったブログ主(いまのところKさんとしておきます)は、岩手公園の名称は簡単に捨てることができないことを申し添えておきます。

さて、この3回も改訂されたガイドマップですが、マップのセキレイ君がしゃべる言葉に大きな間違いがあります。それは烏帽子岩を転石」としているところです。転石であるためにはその石(岩)をそこまで移動させた何らかの営力が必要になります。しかし烏帽子岩を動かすような重力作用を生じさせる山は近くにありません。また洪水の作用で移動したとしてもモナドノックらしい烏帽子岩の標高まで水が出たとは到底考えられないのです。すなわち烏帽子岩はもともとこの場所にあり、節理に沿って風化した結果、地盤から切り離された独立した岩塊であると言えます。

節理によって根元から切り離された花崗岩烏帽子岩(決して転石などではありません)

それはないよね、この地図を監修した地質屋さん!

 

⑩キハダの大木の切株はどこ?

かつて亀ヶ池に向かう斜面にキハダの大木がありました。ここを通るときはいつもその存在を確認する樹でした。キハダの大木は盛岡市内でもあまりお目に掛かれません。市内でおがっているのは四十四田ダム湖畔くらいしか知りません。その樹が2018~2019年に伐採されてしまいました。

これがキハダの大木の切株です

盛岡在住の画家で雑誌「とりら」の編集者、飯坂真紀さんの2017年の作品「雲には銀の裏地が付いている」の中央ちょっと左寄りにそのキハダの大木が描かれています。エスポワールから描かれたこの作品、キハダがどれか分かりますね?

「雲には銀の裏地が付いている」2016年 飯坂真紀さん

⑫石垣が作られた時期の違い

現地で石垣普請時期の明らかな見た目の違いを示すことができませんでした。どこで違いが良く分かるか、宿題にさせてください。とりあえず2期と5期が接するお城南西の吹上門に上がる斜路の途中の石垣に残る痕跡と、公園広場(多目的広場=台所広場)からを示します。

石垣の普請時期は大きく5期に分かれる

吹上門に上がる斜路を緩くするために新たに石垣が組まれたの、分かりますね?

中央トチノキから左の二ノ丸の石垣が第1期、右の三ノ丸の石垣が第2期



博物学高橋喜平さんをしのぶ

沢内村出身の雪氷学者で在野の博物学者、高橋喜平さんは、身体が弱って病院通いを強いられた晩年、住まいを移したトーカンマンション不来方Google マップ、今更だけどマンションのネーミングのセンス Good!)から岩手公園に足繁く通っていました。喜平さんは樹々でいっぱいだった岩手公園の佇まいを愛してました。

今から33年前、1989年秋の様子が写真集『岩手公園の秋』に載っています。この場所を訪ねてみてこの33年間の変化を自分の目で追ってみましょう。

「岩手公園の四季」高橋喜平著より

⑭榊山曲輪の雑(ざつ)な石垣

榊山曲輪の入り口にはバリケードがあり、人の進入を拒んでるかのようです。ここは北上川の河道付け替えにより失われた盛岡城西側の要害性を取り戻すための石垣新規普請でしたが、必要以上の要害性がこの榊山曲輪にはあります。詳しい話はかみやまひとしさんの次の記事に譲りますが、榊山曲輪ができたおかげで、その背後の石垣は真面目に積み上げなくても前に突き出た三角形の榊山曲輪が抑えになって大きく崩れることはありません。そのため、榊山曲輪背後上方の石垣は、スカスカでいい加減、もとい適当に、もとい御座なりに積み上げられています。

my-michi.com

いい加減に積み上げられた榊山曲輪背後の布積みの石垣


⑮本丸門脇の粋(いき)な石垣

石垣普請第1期に積み上げられた本丸の石垣は野面積みの整然として嚙み合わせの良い石垣になっています。個人的な好みを言いますと、この本丸東側の石組みが、盛岡城跡の石垣の中で”いちばん”好きです。

野面積みの堅牢な石垣(落ち葉と苔が石垣の美しさを際立ててある)

 

⑯殿様がかつて見ていた山

南部家初代南部信直によって不来方城の跡地に築城がはじめられた盛岡城ですが、第3代藩主、南部重直の代になって寛永10年(1633年)、一応の完成を見ました。この盛岡城に居城した殿様は第4代の重信以降になりますが、その殿さまたちはこの山並みを見ていたことでしょう。

カシミール3Dによる展望シュミレーション

このシュミレーション通り、本丸から城郭方向である二ノ丸通路方向(北東方向)の向こうに、愛宕山がかろうじて今でも見えます。手前の建物は岩手医大、煙突のようなものも岩手医大の敷地内にある尖塔です。

本丸から二ノ丸通路の向こう正面に見える山、愛宕山

 

⑰こんなところに枯山水

二ノ丸に枯山水が仕込まれてました



⑱みんなで箱庭ゲリラインスタレーション

この切株はホント枯山水を「どうぞここでやって下さい!」と言わんばかりです。

3/18の土曜にやった枯山水、出来が良くて4日後の3/22もそのままの状態でした

完成を記念して

⑲木登りにてきした木、カエデ

これね。全然やらなかったね。またあとでね。